昭和四十五年一月二十五日 夜の御理解


 「初心忘るべからず」というようなことを申します。これは、稽古事なんでも初心ということが、大事だと言われておりますが、信心もやっぱり初心ということが一番大事で、慣れてくるということが一番、功者になっただけではおかげになりません。これは信心の道だけではないようですね。
 今日は、私、初心ではなくて[無心]と言うことを、何回もここで頂いたんですけれど。これは、もうひとつその前、もうひとつ向こうの境地だろうかと、こう思いますけどね。やはり、初心とか無心とかということ。無心であるということは、神様に一番通うことだろうとこう思いますね。
 最近、ここのお広前で感じられることは、若い人達の信心が生き生きしてきたことですね。例えば、若柳会なんかの人達が、なにかひとりひとりが、こう生き生きとしとるのを、体験というか、生き生きと信心をさせて頂いておる。
 先日、月次祭の日も、<内野>さんところの、たか子さんが、お姉さんたちが、風邪具合が悪いし、勝手の方が困られるだろうから、早くおかげ〔を〕頂こうと思うて、一生懸命お願いして早く帰ってきよったけれど、バスがなかなか来ない。タクシ-でもやってからとこう思っておるところへ、高橋さんが通りかかられた。久留米の方へ行かれることはないのに、たまたま用があったちいうようなふう〔で〕から、合楽に向こうておられて乗せてこられ来て頂いたと言うてお届けしております。
 みち子さんも、こちらが御用頂くもんがございませんから、二日間休んでこちらで御用頂いたと。会社の方には、風邪だということにしてあった。それで、まあマスクなっとんはめて行かなきゃ会社の方に悪いと言うて、ゆうたぐらいだった。そうですけれど、もう会社〔に〕行ったら、頭がズキズキしだしたとこう言われる。神様〔は〕、顔を立てて下さると。
 もう、これなんかはですね、生き生きしとるとでなからなければ、そうゆう体の上にまで、神様が現れなさらんのですよ。ですから、本当に頭がズキズキするもんですから、風邪〔を〕ひいとったとゆうそれが実証〔出来〕心から嘘を言わんでもすむといったような感じで、まあ、おかげ頂いたといったような意味のことを、お姉さんのたか子さんに話したと言うて、一緒にここでお届けしてました。
 というようにですね、なんとはなしに、特に若い方達、今日は少年少女会〔で〕日曜日でしたけれども、今日は例会日じゃないです。けれども、正月に皆〔で〕話し合って、日曜日たんびに御祈念に出て来れるもんだけは、御祈念会をしようと。これは、もう本当の御祈念だけの会だからというて決めておったそうですが、今日も九時の集合時間には、もうほとんど全員が集まってました。何員かは遅れて来ましたけども、もう全員集まっておった。
 そして、いわゆる本当の御祈念会です。もう、朝の御祈念と同じ。大人が仕えます朝の御祈念と同じ形式で、光昭が先唱して御祈念を仕えるんですよね。
 そして、その反対に、今度は、まあここで老功な人達、信心がもう出来ておる、ある意味でここで一級と言われる人達の信心が、非常に低下したとしか言われないような状態が現在続いておることですね。そして、若い人達の信心が、こう生き生きしてきておるといったようなものを感じます。
 今日、私、朝の御祈念の形をとって少年少女の方達が、御祈念をしておる。そして、ここへ、皆で御挨拶に出てまいりましたから、何か御理解ひとつ頂きたいと思うて、教典を開かせて頂いたらね、私が毎日毎日申しております「女が菜園に出て」ということなんですよ。
 だけど、これは、私は意味が分かるまいと思うてですね、その一節前のところの御理解を、今日は皆んなで繰り返し読ませて頂いた訳でしたけどね。その前の「木の切り株に腰をおろしても、立つ時には礼を言う心持ちになれよ。」という、あの御理解です。その次が、実はそうじゃなかったんです。「女が菜園に出て」っていうことですけれども。あれは、最近は非常に難しく頂いておりますからね、ですから、「木の切り株に腰をおろしても、立つ時には礼を言う心持ちになれよ。」
 どのようなことにでも、有り難いを言え、感謝の心を持てというような意味のことを、子供達に話させて頂きながら思うんですよね。私達が、ひとつ本当に、これは、初心になってですね、もう一遍改めて信心を頂き直さなければいけんという気が致します。どんなに功者になってもですね。
 今日は婦人会、そして後は研修会がいつもあるのですけども、高橋さんひとりしかみえておりません。〔そう〕いうお話を聞きよったら、この頃企画の時に、もう研修会では、研修会を止めようといったような話が出たということらしいんですから、こういうようなことなんかでも、もう集まりたくないというような気持ちが強いからこそ、そういう話が出るのでございましょうから。
 もう、やはり古い信心は、もうあのへんでこう挫折してしまうような感じが致します。ですから、例えばそういう人達が、新たな、いわば、無心と言いたいけど、無心とまではいかれんにしましても初心にもう一遍帰ってですね。
 最近、私が言うております「大地を拝む心あらば」とか、または、「それを煮て食する時に、神様頂きますという心あらばさわることなし」とおしゃる、神様頂きますというようなみやすい信心です。であれば、さわることないとおっしゃるんですからね。
 これを、有り難く頂かなければならんというところに、非常に難しい難しい、またみ教えを頂かなければならんし、修業もしなければ出来るこっちゃありません。有り難く頂かなければさわることなしだったら。けれども、神様頂きますという心あらばというのですから。
 だから、誰でも出来る。もう、初心の者にも出来る。だから、そういうところをですね、もう一遍私どもは、木の切り株に腰をおろしても、立つ時には礼を言うような心持ちににならせて頂くことやら、また、神様頂きますといったようなところから、なる程、さわることなしというような体験を、もう一遍改めてですね、頂き直さなければならない時期が、合楽のお広前に感じられますですね。
 ある意味では、大変寂しいことです。寒修業中に、そういう急にそういう勢いが、落ちてきたとか無くなってきたとか。例えば、研修会を止めようといったような雰囲気が、生まれてくるなんて。これは、もう私の不徳のいたすところだと思わせて頂いておりますけれども、そういう雰囲気は、もうそれでいいから捨てていかないけん。それに縋ちゃならん。だから、心ある人は、もう一遍初心に帰るという信心をですね。いわゆる、若柳会の方達が、生き生きしたものを感じておる、そいうい信心。
 例えば、少年少女会ですら御祈念会というたら、例会でもないのに、やっぱり皆が集まって来て、しかも大人並の御祈念を一生懸命しておるといったようなね、そういうようなものがです、合楽のお広前に感じられます。
 ですから、いわゆる、やり直しという気が起きなかったら、もう、いよいよ信心は堕落するばっかりだと思いますね。修業がいや、共励がいや、もう集まりに行きたくないといったような雰囲気が、生まれてきたら、もう信心も駄目です。
 とにかく、共励なんかには行って、一言お話しさせてもらわなければおられないといった生き生きしたものがです頂けてくるようなとでなからなければ、お道の信心は、もう本当にやっぱり駄目です。
 なにかしら最近、そういうようなものを感じます。ですから、私ども<も>、もう一遍木の切り株に腰をおろしても、立つ時には礼を言うような心持ちをです、そういう、信心させて頂く者の初心の時にならわせてもらう、そういうことを、本当にもう一辺、さらな初心の気持ちに帰って、そこから、ひとつやり直さなきゃいけない。本気で、ひとつ有り難いとまではいかんでもです、「神様頂きますという心あらば」とおしゃるから、この頂きますというような、いわば、うぶな信心がね、頂けてくるおかげを願わして、私は頂いております。皆さんも、心づいた人は、そういうところから、ひとつやり直して頂きたいと思います。
 幹部の人達が、今ようやく、勿論今皆さんが風邪ひきで皆んな休んでおりますから、でございますけれど、総代さんのお届けが、もうかろうじて、いっつもひとり誰かが。いつも、やっぱり十人おられる中にせめて、七人八人位は揃えてお届けがあっておったんですけれども、総代さんが朝の御祈念の後にされるのが、いっつも最近ではひとりかふたりか。そして、なんか、だらだらと参ってはみえます、皆んな。みえますけど、それ程に、やはり寒修業中だというのに信心に生き生きした、いわゆる生きたものが欠けておるということですからね。合楽のお広前全体に、生き生きしたものが欠けておるというのではありません。
 その証拠に、今、若い人達の思いがけない人達がです、なんとはなしに、生き生きしたものを盛り上げるとまではいかんでも、そういうひとつの若い芽が出ておる。そういう息吹というか、そういうものを、なんとはなしに感じます。
 だから、私どもは、もう一遍そこに帰って、その人達と一緒に、ひとつ若々しい信心を頂きたいというふうに思うですけれどね。どうぞ。